☆ 創 論 ☆
~ 断 章 ~


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〇「基礎給付金基本法」を制定する。

 基礎給付金(ベーシックインカム)は、基礎給付金特別会計を設け、その会計の収入は、消費税と新円発行とで賄う。
 従って、基礎給付金特別会計は、日本銀行が担当する。
 基礎給付金は、日本国民及び日本に居住する全ての居住者(住民登録者)を対象として、日本銀行が各個人に給付口座を設定することで、給付するものする。

 基礎給付金の基本思想は、通貨は国家が発行するものであるから、通貨の流通の基礎構造の一つとして、個人に対し、基礎額として適正と考える額を月々給付することが、通貨制度上の基礎であると規定される、と考えるものである。
 従って、基礎給付金は、個人に対する通貨制度上の、国家の義務のひとつである、と考える。
 日本銀行が給付する基礎給付金の受け取りは、各個人が開設した市中銀行の預貯金口座をマイナンバーと紐づけ、公金受取口座として登録することによって、基礎給付金の受け取りも可能になるものとする。または、マイナンバーのマイナポイントでの受け取りも可能とする。

 基礎給付金の発行受領期間は、国民においては、基本的に、その誕生に始まり、その死によって終わる。それ以外の、日本における居住者に対する基礎給付金の発行受領期間は、住民登録の期間とする。

 個人宛に発行が規定される基礎給付金は、その設定金額を月々、日本銀行に開設された個人の基礎給付金給付口座に発行され、給付されるものとする。すなわち、各個人が市中銀行に受け取り口座を開設しない場合でも、月々の金額が累積していくものとする。しかし、発行を各個人の契約の銀行口座で受けることによって、基礎給付金が発行され、財産となるものとする。発行を受けなければ、発行を受ける設定が残るだけで、財産が残っているのではないものとする。発行は月々のものとする。
(2022.7.17更新)




税で調節するのは、通貨量ではなく、通貨の流動量だ。それは、税が経済行動を誘導する機能があることによる。

 通貨の発行量でも、通貨の総量でもなく、通貨の流動量を調節することができ、それをすれば良いのだ。

 税は、通貨の流動量を調節する。その手段である。

 国庫は無尽蔵であり、税は、通貨の流動量を調節する。

 通貨は無限に増え続ける。そして、通貨は、どこへともなく消えていく。実際には、税によって回収もされる。国外流出分は、消滅とほとんど同じである。回収が困難だから。使われて、はじめて出てくる。それまでは、無いに等しい。

 通貨を無限に増やし続けても、貯蓄化されることで、潜在化し、実質的には消滅と同等になってしまう。貯蓄化することで、安心感は増え、担保能力も増え、支払い能力も増えるだろう。しかし、その通貨が使われる、言い換えれば、消費されるのでなければ、流通市場上には存在することにはならないのである。通貨は消費されることで、流通市場に存在することになるのである。通貨の発行は、その前提となっているだけである。発行量の増えることが、通貨の消費量の増加を、等値的には意味しない。通貨が金庫の中に存在し続ける限り、流通市場上には存在していない状態が続くことになるからである。

 だが、発行量が増え続ければ、それが通貨の消費量を増やす要因となるだろう。

 通貨の消費量の増加とは、すなわち、通貨の流動量の増加と同等である。支払い代金に対して、税金が多くかかることになれば、それは、購買抑止力として働くことになるだろう。消費税を、たとえ1%でも高くすることは、それだけで購入に対する心理的抵抗感を高める。そして、それが実際により安価なものを求めさせることになったり、購入を躊躇わせたりすることになるだろう。
 実際の支払いの金額を上下させる全般的な間接税は、直接的に通貨の消費量、つまり、通貨の流動量を変化させることになる。つまり、消費税は、景気を左右する、ということである。すなわち、税は、通貨の流動量を調節する、ということである。




〇支出の適正性を考える。
 支出が適正であるかどうか。それが、支出を考える場合の重要事項の一つである、と考える。
 重要事項には、他に必要性がある、と考えられる。必要であるかどうか。必要であると考えられる場合、だが、必要だから、実際の支出額がどんなに多額になっても良いことにはなるまい。不必要に多額であることは、適正である筈はなく、必要なものが、適正な価格で取引されている、と認められるのでなければならない、と考える。

 価格の適正さが認められること。



〇通貨循環率というものを考える。
 低所得者の通貨循環率は高い。所得の多くを消費するから。一方、高所得者の通貨循環率は低い。多額の所得をあげても、その多くは、使われずに、貯蓄化されるから。
 高所得者の所得となった通貨が貯蓄化されるということは、通貨の流動性の喪失である。それは、通貨の滞りを意味しているから、より高率の所得税を課して、通貨の循環に戻すべきであることになり、より高い累進課税率でより多く徴収し、通貨を流通に戻すことは、正しい通貨行政であることになる。



〇自分基準で考えるのではなく、他人基準で考える。とすると、どうなるか。
 あるいは、自分ではなく、かと言って、ある特定の他人でもない、一般人を想定して、一般人基準というもので考える。としたら、どうなるか。

 自分基準ではなく、と考えることが、一般人を想定することになる。

 自分基準でなく、と考えるということは、他の人の場合はどうだろうか、と考えるということである。

 自分基準ではなく、とすることは、自分の個性を除外することを意味する。
 自分の個性を除外することは、人間性のすべてを除外することではない。人間性の内、自分だけの個性的な部分と思われるものを除外することを意味している。ということは、残るのは、共通部分ということになる。これは、自分ではなく、他人基準で考えてみるとすることでも、自分だからと思われるものを除外して、立場を他人にして考えてみることであるから、自分由来の特殊性を除外するという思考は、共通する部分で考えようとすることを意味している。ということは、他人基準で考えるとすることで、自分由来の特殊性を除外しようとすることは、一般人というものを想定することに近づくことを意味している。
 ということで、自分基準で考えることをやめ、他人基準で考えようとすることは、一般人を想定することに限りなく近づくことを意味する、と考える。

 立場を替えて考える方法として、他人基準で考えてみるということは、すなわち、一般人を想定することに限りなく近づくものとなる、と考えられ、公平性を考える時、なくてはならないものと考える。

 その一方で、自分の幸福は、まず、自分基準で考えることになる。というのは、自分の幸福は、他ならぬ自分のものであるから、自分基準で考えるのが自然なことと思われるからだが、それは、どこで主張されるのか、どこで実現されるものなのか、が問題になる。というのは、他人と一切関わりのないもの、場所であれば、それは、完全に自分一人の問題となると考えられ、ならば、自分基準で考えることに何の支障もないことになると考えられる。
 ここで、最も適切な事例がある。それは、薬物の使用である。特に一人で薬物を使用する場合、他人が存在しないから、他人の権利を侵害することはないと考えられ、完全に自分一人の問題で、自分基準で考えることに何の支障もないことと考えることが往々である。だが、法律はそれを禁止している。なぜか。それは、薬物が、正常性を奪うもの、失わせるものであるから、である。正常性を奪われた人間、正常性を失った人間が、ただその場で意識を失って死に至るだけならば、実質的には何の問題も生じないだろう。しかし、実際には、薬物によって正常性を失った人間が、その場を離れ、他人に危害を及ぼすことが多々発生した。そのことによって、正常性を失わせる薬物の使用そのものを違法行為とし、禁止することにしたのである。所持するだけで有罪とすることで、薬物への接近を回避させることにした。薬物の有害性の高さゆえである。自分一人の問題と思われても、そのことでどんな影響が他人に及ぶことになるか、最大限に考える必要がある、ということである。




〇「財政の健全化」とは、何か。

 「財政の健全化」とは、何か。
 これは、税収とは、政策的経費を賄うためのものである、という、伝統的な考え方に由来する。これは、税収で政策的経費を賄うのが健全な財政のあり方だ、という考えから出てくるものである。
 「財政の健全化」を考えるためには、「健全財政」とは、何か、どういうものか、を明らかにしなければならない。
 「財政の健全化」を目指すのは、現在の財政が「健全財政」から外れているから、そこに戻す、ということを意味している。

 では、「健全財政」とは、何か。
 一般に考えられている、伝統的な考え、というものを推測してみる。
 伝統的な考えに従うと、税とは、政策経費を賄うためのものであるから、歳出、すなわち、政策経費に加えて国債費をも含んだ全ての国の支出は、税収で賄う、ということになり、この考え方に立つと、「健全財政」とは、税収で、歳出が賄われている状態、ということになる。

 この考え方の非現実的なところは、その時々の国家経済の状態を考慮していないところにある。
 なぜなら、歳出が多くなる時に、その歳出を賄えるだけの税収をあげなければならない、ということを意味しているからである。歳出が多くなるということは、それだけ国家経済に公的資金を投入しなければならない、経済的には苦境にあるから、歳出が多くなっているということである。それにもかかわらず、そういう時に、税収を多くして、市中から資金をより多く回収することになるからである。
 そして、現実はどうかと言えば、税には、前提として歳出額が設定されていないものが多いので、税収で、歳出が全て賄われた、という歴史はない。
 「健全財政」という観念は存在しても、それが実現することはないと思われる。
 そもそも「健全財政」という考え方が、間違っている、と考える。
 それは、税が、歳出額を前提として設定していないものがほとんどであることが証拠である。歳出額を賄えるように設定していないのである。賄えるように設定して、徴収していないのだから、そんな税収で、歳出が賄える訳がない。これが現実で、それであるのに、「財政の健全化」を唱え、逆転して、税収の総額以下に、歳出を合わせる、抑え込むのが、理想的なこと、そうするべきことであるかのように主張する。しかし、現実には、その主張は、いつも敗北している。現実の必要性を無視することができないからである。

 だが、そもそもの間違いは、税は、政策的経費を賄うためのもの、あるいは、歳出を賄うためのもの、という考え方である。
 税は、通貨の流動量を調節するためのもの、景気を調節する手段、また、政策的誘導のための手法のひとつ、と考えるのが、正しい考え方である、と考える。

 そもそも、通貨は、国家が発行するものである。そして、税とは、通貨を直接的に回収するものである。通貨は、発行と税によって、その流通量が調節されるということである。
 従って、税は、国家経済の状態に合わせて、通貨の流通状態に合わせて、どれだけ課税するか、税率を考えれば良いものとなる。歳出がどれだけであるかは関係がないことになる。歳出は、国家建設の計画に合わせて考え、税収で足りない分は、通貨の新規発行で賄えば良いのである。



〇「命」は、個体に宿る。

 「命」は、個体に宿るものである。個体に宿るのではない「命」は、可能性の「命」として、観念として認識できるものでしかない。それは、現実的な存在ではない。現実的な存在としての「命」は、必ず、個体として存在する。単細胞であるか、多細胞であるかの違いはあっても、個体として存在するものであって、個体として存在するのではない「命」を考えるのは、あくまで観念的な「命」の概念でしかない。

 「命」は、個体に宿る。
 それゆえに、「命」は、個性を持つものとなる。また、それゆえに、主体性を持つのである。



〇国家ビジョンを描かせるものは何か。ひとつは、課題意識。もうひとつは、権力者の欲望。



〇「原罪」とは、何か。

 私の考える「原罪」とは、命を保つために、他の命を奪うことである。すなわち、自分の命を保ち、養うために、食物として、植物にしろ、動物にしろ、他の命を殺し、摂取することである。
 それこそが、本来的な「原罪」、ほとんどの植物などの自立栄養生命体ではない、他立栄養生命体の根本的な「罪」、「原罪」である、と考える。

 では、それに対する、「贖罪」とは、何か。

 それが、問題なのである。

 その答えのひとつとして考えることは、科学技術の進化で、いつの日か、植物のように自立栄養が可能になれば、「原罪」から解放されるだろう、ということである。
 それは、例えば、無機物と光合成から、栄養物の生成、アミノ酸の生成が、工業的に、安価に可能になれば、達成できるのではないか、と考える。

 だが、これは、自然からの乖離になってしまうものなのか。自然の恵みを拒否しているようなものなのか。無機物と光であっても、自然の恵みではないか、と考えれば、無機物と光からアミノ酸を工業的に生成しても、自然の恵みを受けているものに違いないと言える筈だ、とも考えられる。
 だが、その場合に、植物などの自然生成由来のものに劣るものしか生成できないのであれば、それに取り替えることはできないだろう。自然生成のものよりも優れたものが生成できる場合でなければ、切り替えは起きない。それが、できて初めて、根本的な「原罪」からの解放が達成される。

 根本的な「原罪」からの解放が達成されるまでは、「贖罪」は、課題として残る。




〇国家の役割を考える。

 国家の役割は、まず第一に、国家ビジョンの提示である、と考える。
 ビジョンなくして、国家像の提示は不可能であり、国家像の提示なくして、国家の仕事を明らかにすることはできないからである。

 国家は、その支配領域に住む人間の作るものである。だが、単に、居住する人間が集団になれば、国家となるのではない、と思われる。その人間たちが、集団として、どうその集団を運営していくか、経営していくかを考え、実行することなくして、その集団を維持し、発展させていくことはできない、と考える。

 ゆえに、国家は、国家ビジョンを提示する必要がある。

 国家ビジョンを提示すると、それに合った実行が問題になる。

 国家ビジョンに合った実行には、まず、基礎として、3つの構造が存在している、と考える。

 その一つ目は、通貨の発行である。

 その二つ目は、通貨の管理である。

 その三つ目は、産業の育成である。

 以上の三つは、経済面の基礎である。


 だが、そもそも、国家成立の前提となる、経済の根幹は、生産と交換である、と考える。

 生産は、実物に限らず、精神的なものも含む、すべての客体となるものの生産である。すなわち、原材料とか、農林水産物とか、あらゆる加工品、工業製品のすべて、そして、美術、宗教的営為、芸術的、学術的、電磁的な成果、など、対象となしうるもの全てと、それらを形成することである。
 交換とは、生産物の、及び、それに付随する権利の取引、譲り渡し、注文、依頼と提供などと、及び、移動、権利の保障、の確立である、と考える。

 経済の根幹は、生産と交換であると考えるが、その二つに横断的に、根幹的にかかわるのが、通貨である。通貨がなくても、生産ができることがあり、交換もできると考えられるが、通貨が確立されることによって、生産も、交換も、確実に、効率的に行われることになるからである。

 その通貨は、交換価値や交換体制が確立されなければ、その利用価値は信用できるものにならない。通貨の信用は、かつては金という希少金属の本来的な価値の高さが、それ自体によって、確立するものとなっていた。その利用価値は、基本的に今日でも変化していないので、金は依然として、通貨に近い価値を失ってはいない。だが、法治国家社会の確立によって、金ではなく、国家発行通貨が、法定通貨であることになっているので、法によって通貨と規定されたものが、通貨として通用する、流通することになる。

 通貨が確立するために、国家の成立が必要なのである。

 今日では、国家が、通貨を確立する。すなわち、国家が通貨を発行する。
 そして、その通貨の価値は、有用性の確立にかかっている。その有用性の確立は、まず、その通貨が潤沢に存在していることである。通貨が枯渇してしまっては、経済活動が止まることになるからである。通貨を、潤沢に供給する、その一方で、その通貨によって交換される、物資やサービスが、対応するだけ存在するかどうか、が問題になる。それゆえに、産業の育成が国家の課題になる。

 これが、今日の国家の姿である。
 よって、通貨の供給と管理と、産業の育成は、国家の重大な責務であることになる。
 中でも、国家が確立する通貨、国家が発行する通貨が、今日の経済の根幹にかかわる重大要素なのである。


 国家の役割として、居住者、国民の安全保障がある。その実現のためには、医療保健体制、警察防衛体制、消防防災体制の整備がある。
 これは、国家の安全保障の基礎である。
 これは、国家が世界に一つではないことによって生じる問題でもある。

 国家が世界にひとつではないことによって、国家には外交面の問題が発生する。また、外国との交易、対外交渉という問題も発生する。



〇国家経済を考える。

 私は、国家経済を、すなわち、「財政」という言葉と同じとは、考えない。しかし、一般に「財政」というと、国家経済のことと理解されている向きがある。だが、財政健全化などという場合に、考えられていることは、国家経済の健全化ではないと思われる。考えられているのは、政府のバランスシートがどうであるか、政府が抱える負債をどうするか、ということである、と思われる。
 基礎的財政収支の黒字化が、「財政」の健全化であると考えている人たちもいる。
 そういう人たちの考えている、「財政」の健全化とは、税収と支出とのバランスにおいて、税収で支出を賄えているか、ということを問題にしている、と思われる。特に、基礎的財政収支を問題にする場合、その収入とは、税収のことであり、支出とは、国債費を除いた、政策的経費だけのことで、国債の償還費用を含まない、経済政策上のすべての支出の合計ことである、と思われる。

 これは、財政法に規定された歳入の定義、また、歳出の定義から、考えているものではない。財政法によると、歳入とは、一会計年度における一切の収入をいい、歳出とは、一会計年度における一切の支出をいう、とある。

 基礎的財政収支の健全化を問題視する人たちが考えているのは、歳入と歳出のバランスのことではない、と思われる。なぜなら、歳入と歳出とは、常に同額になるように調整がされたものであるから。いわゆる歳入不足と言われるのは、正確には、税収不足と言うべきで、歳入は、歳出に合わせて、税外収入、すなわち、公債、つまり赤字国債による収入によって不足が埋め合わされて、同額になるように調整されるものだからである。従って、歳入と歳出との間で均衡が取れないなどということは起きない。常に均衡が取れるように調整される。そのために、赤字国債を発行している。

 問題にしているのは、その時々の税収で、その時の政策経費がどれだけ賄えているか、ということだろう。

 しかし、単に、ある時点での税収が、その時点での政策経費をどれだけ賄えているか、を問題視するというのは、まったく合理性がない、と考える。

 というのは、そもそも税が、政策実行のためにあるのだと考えているとしても、そのために制度設計がされて徴収されてはいないから、である。歳出が、税制の制度設計の前提にされていないから、とも言える。

 (ただし、消費税については、社会福祉目的のものと規定され、使用目的が規定された、目的税であるので、それは、その消費税の合計で、社会福祉上の政策経費がどれだけ賄えているかを問題視するのは、合理性がないわけではない。だが、その税収が支出を超えて、黒字になれば、過大徴収、支出がその税収に満たずに黒字になれば、過少支出、となり、どちらの場合も、その税収は、不当な徴収にあたることになる。あるいは、支出が不当なものとなる。)

 現行の税は、理念として税とは、政策実行のためにあると考えたり、規定したりしていても、実際には、税を徴収する制度設計において、賄うべき歳出を前提としていない。まず歳出がどうであるから、どれだけの税が必要であるかということを考慮しないで、ただいくらかの税を、ともかく徴収するという、政策や、費用確定の前に、先行的に徴収するという制度設計で制定された徴収方法で、現行の税は、徴収されたものになっている。

 このような税収が、さまざまに変化する現実に対応して実行しようという政策の経費を、どれだけ賄えているか、と問題視する。それは、税収で賄うべきなんだから、という固定観念からに過ぎない。また、賄えない分は、赤字国債の発行に頼るのだから、それを認め続ければ、巨額な負債を抱え込むことになり、それは、国の財政を揺るがしかねない重大事だ、と考えるからによる、と思われる。

 また、財政収支の健全化が、黒字化ということだとしてみよう。その場合、税収が、支出を上回ることを意味する。支出を上回る税収をあげることが、すなわち、過大徴収が、賄うための税として、合理的であると言えるのか。支出をともかく抑え込んで、税収より下回れば、黒字になる。その場合でも、ただ黒字にすれば、良いことになるのか。支出のために徴収された税を活か切っていないことになるのではないか。また、支出より多くの税を徴収したことになれば、それは不当徴収であることになるのではないか。
 あたかも黒字にすれば良いことであるかのように考えるのは、企業会計で、利益をあげるのと同じ発想だからである。赤字になるのは、損失だから、マイナスなんだから、悪であると考え、黒字になるのは、プラスだから、善であると考える。(しかし、税収は、国家にとって、収益行為ではない。税は、利益ではない。)
 財政収支の健全化とか、均衡を唱える人たちは、財政赤字になって、その赤字を負債で補って、しかもまともに返済しないで、次々と負債を積み上げ続ければ、いずれ破綻してしまうに違いない、と考えているようだ。だから、悪だ。やめなければならない、と考えているように思われる。

 だが、こういう問題意識は、そもそも、通貨とは、国家が発行するもの、国家が発行するから存在するものだ、という事実を認識していないに等しい。

 (中央銀行が通貨とされる銀行券を発行するのは、あくまで、国家が制定した法律による。中央銀行が、国家による法の制定の下で行うのである。中央銀行が国家に先行したり、優越したり、上位にあるのではない。その独立性も、国家が制定した法の規定による。国家の制定とは、国会の議決ということである。)

 税を、国家の費用、国家の政策的費用とか、国債の償還費用とかを賄うためにあるものだ、と考えるのは、一見、当然のことのように思える。しかし、それは、通貨を発行する能力を持っていない者の発想である。

 江戸時代など封建時代においては、米を俸禄とした。米を通貨のように俸給として扱った。米を税として納めさせ、そして、米を俸禄として与えた。そのように、米を通貨のように扱う場合においては、米を好き勝手に作ることはできない。採れた米、または、取り立てた米以上の米を、必要なだけ生み出すことはできない。また、金や金貨を通貨とした場合、金鉱をすべて公有としても、採掘された金以上には金貨を発行することができない。
 こういう有限のものを通貨にすると、通貨を管理するほどの権力を持っているとはされながら、実際にある時点での費用を賄えるだけの通貨を、その支払いの時点で、実際に持っているかどうか、それが、物理的に問題になる。だから、費用を賄えるだけの収入、税収があるか、また、負債が巨額になれば、支払い不能に陥るのではないかと、心配することになる。

 つまり、不足があるなら、いつでも、必要なだけ通貨を発行して賄うことができる、という発想がない。

 しかし、現在は、銀行券という紙幣の時代。さらに、電子的決済の時代になっている。電子的決済とは、実際の紙幣の移動を伴わないで、通貨の収支が行われたとすることである。

 ということは、時代的には、既に、通貨は無尽蔵に存在している、ということと同じである、と考えられる。潜在的に、無尽蔵に存在し、発行とは、それを顕在化させる行為なのである。

 こういう時代においては、経済政策として考えなければならないのは、無尽蔵にある通貨の流動性の確保である。
 そして、無尽蔵に通貨を所有しているのは、国家なのである。国家は、通貨を無尽蔵に、中央銀行に預けているようなものなのである。それを、旧時代的発想で、有限のものと考えて、不足を国債という負債で補い、負債を累積させていくのは、大きな間違いである。また、税は国費を賄うものとして、実際の市中の通貨の量、特に、流動性通貨量がどうであるかによるのではなく、ただ国費を賄うためのものだからと、賄えるだけの税を徴収するというのも、大きな間違いである。どちらも、実際の経済を危ういものにする。

 税という回収制度は、実際の通貨の流通量を左右する。だから、通貨の流通量の調節に使うべきものなのである。

 また、通貨は、通貨経済社会においては、生存を左右するものなのである。命に関わるものである以上、国家が、国民、居住者の生存を保証する義務があるのならば、通貨経済社会的にそれは、いくらかの通貨の給付を保証するという形で実行されなければ、実効性がないことになる。



〇国家は、国費を、国家発行の通貨で支払う。
 その通貨が、税によるものか、新規発行によるものか、国債の販売によって、市中から集めたものかは、問題ではない。
 自国通貨発行の国家は、国費を、自国が発行した通貨で支払う。それが、その国家の支払いの最低限の義務であり、その通貨が、税によるものでなければならないという必要や義務はない。必要なのは、その国家が発行した、つまり、自身が発行した通貨、自国通貨であることである。

 通貨を発行する国家の義務は、その通貨を普及させることである。なぜなら、その通貨が、経済活動を支える第一の交換手段であると法律の権限をもって規定するのであるから。つまり、発行券を通貨とするのであるから。




〇「基礎的財政収支の均衡」とは、何か。

 ~基礎的財政収支の説明として、財務省のホームページには、「基礎的財政収支(プライマリー・バランス)とは、税収・税外収入と、国債費(国債の元本返済や利子の支払いにあてられる費用)を除く歳出との収支のことを表し、その時点で必要とされる政策的経費を、その時点の税収等でどれだけまかなえているかを示す指標」と、書いている。~

 「基礎的財政収支の均衡」ということは、収入と支出の均衡、つまり、同額になっているかどうか、同額にすべきだということを意味していると思う。

 今、仮に、それは正しい考え方であるとして、考えを進めてみる。

 正しい、ということは、この場合、収入と、支出の額は、同額にすべきだ、ということを意味する、と考えられる。同額にすることが、正しい、ということが、同額にすべきだ、ということを意味している、と考えられる。
 同額にすべきだ、ということは、何を意味しているのか。
 それは、支出額は、収入額と同額にすべきだ、ということであるのか。それとも、収入額は、支出額と同額にすべきだ、ということであるのか。このふたつは、同じことを意味しているのか。一見、同じに見える。しかし、違う。どちらを優先させるかで、意味が変わってくる。

 均衡が正しい、という考えに立って、まず収入を先に考えて、従って、支出は、収入に合わせるべきだとするなら、それは、収入が優先されて考えることを意味し、収入の多寡が、支出を左右することになる。
 一方、均衡が正しいという考えは同じでも、支出を優先して考えると、収入は、支出に合わせることを意味する。税収を、支出に合わせるには融通性が低く、簡単に不足を補うために増税することができないとすれば、不足は、税収以外の国債等で補うことになる。それによって、収入は、支出に合うことになる。その場合は、必ず均衡することになる。
 また、この場合、支出が優先されるから、政策的経費が、収入の多寡に左右されることはないことになる。
 (だが、税収が、支出に合わないという時点で、不足を税収以外で補うという時点で、均衡が正しいと考えていても、実現していないという現実が、均衡など実現しないものだと示しているのではないか。)

 単に、均衡ということでも、どちらを意味しているのか。
 収入を優先させて、考えているのか。それとも、支出を優先させて考えているのか。

 支出を優先させて、収入を合わせるのは、不足があれば、その不足を補うだけだから、それは、簡単なこととも言える。(しかし、あくまで税収でなければならないとしたら、支出を正確に賄う税収にするための工夫が必要になる。不足があれば、臨時に増税でもするとか、また、税収が多すぎたら、還付を正確にするとか。)
 だが、収入に合わせるべきだとなったら、その収入となるものに、どれだけ支出のことが予め考えられているかが問題になると思う。
 収入が、支出のことを考えていないものでありながら、その収入を優先させて考えるとすれば、それが良い、正しいとする合理性、必要性がどれだけあるのか、が問題になると考えられる。


 なぜ収支は均衡させるべきであると考えるのか。
 それは、根本に、国家事業等の費用は、税という収入で賄うべきものである、という考え方がある、と思われる。
 それは、正しいのか。

 正しいとする場合、その考え方の根本には、税とは、国家事業の費用を賄うために徴収するものである、という考え方があるから、ということになるだろう。
 それは、言い換えれば、国家事業等は、税によって成り立つものである、と考える、ということである。
 従って、国家事業等の費用が多ければ、多くの税を必要とし、少なければ、税は少なくなる、ということを意味する。

 その考え方が正しいとした場合、国家事業等をどうするか、どういうものと考えるかが、その費用の多寡に影響を及ぼす重大性を持つと考えられる。

 国家事業を絞り込んで、ごく限られたものに限定し、しかも、その程度もごく低級、下級、最低限度のものとすれば、国家事業の費用は低く抑えられ、従って、徴収される税額も最小化されることになる。
 一方、国家事業は、必要性、公共性で考え、必要と認められ、合意ができれば、確実な効果、結果が得られるように、十分な余裕をもった事業内容を実現するだけの十分な費用を掛ける、とすれば、費用は多額となるだろう。その場合は、その費用は全額、あるいは、ほとんどを税で賄うのであるから、当然、多額の税が徴収されることになる。

 極端な例だが、この二つの考えのどちらが正しいかと考えるのは、正しいだろうか。
 これは、選択の問題なのか。
 極端な二つの例で考えると、どちらも問題であるように思える。
 では、極端を避け、適正と思える国家事業を考えることが、まず、適切であるとする。そうすれば、必要とされる税も適正なものになるだろうと考えられるから。
 この場合、考えるのは、適正な国家事業とは何か、それはどういう内容のものか、ということになるが、それを考えるということは、それを優先的に考えるのが、適切であると、考えていることを意味している。
 つまり、これは、先に考えたことからすると、先に歳出を決定してから、歳入が決定されるという、いわば、歳出先行の考え方ということになる。

 税が、国家事業の費用を賄うためのものという考え方に立つ限り、事業の費用の多寡は、徴収するべき税の多寡になる。だから、国家事業を適切なものにするということが、徴収する税額を適切なものにする、という順番で考えている。
 その場合、税は、その徴収額を決める制度の設計や運用において、費用を賄うことを前提としている必要があることになる。

 だが、もうひとつの考え方があった。収入が先にある、歳出が先ではなく、歳入が先に決まる、という考え方だと、どうなるのか。

 その場合、歳入が決まる税収の合理性に、歳出は関係がないことにするのか、それが正しいのか、という問題が発生するように思う。
 仮に、歳出が先ではないとし、歳出がどうであるかに関係なく、歳入が決まることになるとする。すると、国家事業の支出額がどうなるかに関わりなく、歳入が決まってから、その歳入の額との均衡で、歳出を考える、ということになる。それは、税制を考える段階で、その賄うとされる歳出がどうであるかを前提としない、ということを意味する。ということは、税とはなんのためのものなのか、それをどう考えるからなのだろうか。
 あえて、説明を試みるならば、国家事業は税で賄われるものであるが、それにもかかわらず、その国家事業の支出額を前提としないで、無関係のものであるかのように、それ独自に、税の制度を考えて、徴収し、その総額で、国家事業は賄われるべきで、かつ、均衡していなければならない、ということになる。どれだけ徴収するかの前提に、歳出額を据えることはしない。税制の設計も、年年の歳出がどうなるかを前提としない。歳出を前提とせずに、いわば、独立に制定された税収の総額を、歳入とする。そして、その歳入が、歳出の上限額と、自動的になる。上限額というのは、正しくない。歳出が下回っても、それは均衡ではないことになるので、均衡が正しいとするならば、上限額ということではなく、そのままあるべき歳出額となる、とする他はない。上回っても、下回っても、それは均衡とは言えないから。

 ともかく、税収は国費を賄うためのものであるとし、しかも、国費がどうであるかを前提としないで徴収される税で、賄え、ということであるならば、国費を税収に合わせるしかない。予算額が、税収に合わせて組まれたならば、その予算を超える支出は許されない、ということになる。また、逆に、下回ってもいけないことになる。ぴったり同じになるのが、正しい在り方となるのであるから。ということは、万が一、下回りそうな場合に、不要な支出をして、収支の均衡を実現することは不正ではないことになる。下回る場合の、予算外の支出は、許されると。均衡が正しいとするなら、そうなるのか。だが、一方、予算を上回りそうになったら、事業の中断が正当なこととされるのか。支出が上回ることも許されないから。
 先に歳入があって、その額が国家事業を決める。歳入を先に考える、歳入が先に決まるものとするなら、そういうことになる。

 どちらにしろ、均衡を取ることが正しいとすることによるし、また、税は、国費を賄うためにあるとすることによる。

 税の徴収なり、予算の編成なり、執行なりで、かなりの困難な事態が発生するのは、均衡しなければならないという考えがあるからであると思われる。

 さまざまな財政上の困難な問題の発生は、そもそも、国費は、税という収入で賄うべきものであるという考え方にあると思う。

 私は、国家事業、国費というものは、国家の資産で賄うものである、と考える。

 その資産には、税による収入が含まれるし、また、通貨の発行によるものも含まれるし、なんらかの国家事業の収益も含まれると考える。

 税を、国費を賄うためのものではないとしたら、それは何ためなのか。

 私は、税とは、通貨量を調節する回収制度である、と考える。税は強制力をもって課されるもので、その通貨を回収する能力は絶大である、と考える。特に消費税の景気に与える影響は大きい。つまり、通貨流通量を直接的に左右する力がある、というこことである。

 税は、自国通貨発行の国家においては、通貨量の調節の手段の一つである、と考えるべきものと思う。





〇通貨とは、何か。

 通貨は、国家が発行する。

 通貨とは、交換の手段である。

 交換とは、経済活動である。

 通貨とは、国家が発行するものであるから、国家には、その通貨量を管理する責任がある。税とは、通貨量を管理する手段のひとつである。

 中央銀行が発行するのは、国家が制定した法律によって中央銀行が設立され、通貨の発行をその法律によって規定しているからである。中央銀行が発行を規定しているのではない。発行の業務、国庫の管理等を行っているのは、あくまで国家が制定した法律に従って、行っているのである。

 通貨を国家が発行するのは、通貨が経済活動の有用な手段として、確立された道具であり、その通貨が、領域の経済体制を支配する道具となるからである。

 地域限定通貨を、地方自治体や商工会議所が発行することがある。
 なぜそのようなことが許され、行われるのか。
 それは、通常通貨との交換で地域限定通貨が発行されるということで、許され、当該地域の経済活動を盛んにするために特化した行為だから、効果が得られるとの考えで行われる。
 これがもし、通常通貨とされる、国家の設立した中央銀行の発行する通貨との交換での発行ではなく、まったく独立の通貨として、地方自治体や商工会議所が地域限定としても、独自通貨を発行したら、どうなるか。
 すると、その通貨は、国家の通貨の経済体制とは、交換が不可能なものである以上、独立した別の経済体制を形成するものとなる。
 それ自体を違法とする法律がなければ、独自通貨の発行が自動的に違法となることはない。だから、国家は、国家の制定する法律によらない通貨の発行を禁止する。そうすることによって、支配域の経済の支配が可能になる。

 通貨は、国家にとって、経済の支配の手段でもある。という具合に、通貨は、国家が発揮する国家の力の表現でもある。

 通貨は国家が発行する。国家がその交換価値を保証するから、その通貨は、経済社会の中で、経済活動の手段としての交換価値を持つのである。

 歴史的には、金が、その世界的な価値によって、交換価値を持っているがゆえに、通貨として、国家を超えて、交換価値のある通貨として通用してきた。
 だが、現在の金の取り扱いは、自由市場での取引商品のひとつと位置づけられている。つまり、銀行券と金との直接的な交換を、銀行券発行銀行が行うことはない。金は取引商品のひとつてして、金を取り扱う商店で、金の取引市場での相場価格を元に売買するものとなっている。しかし、金の世界的な価値は、銀行券に代わるものとしての通貨価値を失ってはいない。国家の制定する法律による保証ではなく、それ自体の希少性、貴重性によって、国家を超えた交換価値を持っている。
 国際決済通貨としての認定を国際機関によって認めてもらうことなく、金は、国際的な通貨として通用する価値を持っている。

 国家が発行する通貨は、国家が制定した法律によって交換価値を保証するから、交換価値を持つのである。

 現在の通貨は、国家が発行するから存在するものである。そのような、国家による通貨は、基本的に、国家によって、居住者、国民に給付することによって、流通が始まる、と考えられる。

 通貨は、国家が発行するから、存在する。
 国家が発行する、ということは、その国家には、その通貨を管理する責任がある、ということである。

 発行ばかりで、回収がなければ、市場に通貨が溢れ、有限な物資との均衡が取れなくなれば、物資の価格が異常に高くなるということが起きるだろう。通貨量の調節が必要である所以である。
 だが、物資の供給が潤沢に行われるのであれば、通貨量が多くても、価格が不釣り合いに高騰することは起きないとも考えられる。食糧など、毎年、必要以上の量が、必ず生産されれば、無限に供給されることになる。しかし、再生産が可能だから、無限に物資が供給されると安易に考えるのも、また、循環によって、無限に物資を生産することができるから、安心だと考えるのも、危険なことだと思われる。
 通貨量は、生産すべてを有限なものと考えて、物資の供給の実情を踏まえて、適切に調節する必要があるものと考えられる。

 通貨量の調節は、強制力のある税によって行われる直接的な通貨の回収ということによるのが、もっとも確実と思われる。高利の国債を発行して、その国債を販売することで、流通している通貨量を減らす、ということもあるが、税で回収するのは、確実に進む。また、政府管掌の社会保険の保険料での回収も確実にできるものと考える。



〇国家の収支の均衡はとられるべきものなのか。収入と支出は均衡すべきだという根拠はなんなのか。由来が全く別のものである歳入、というよりも、税収と、歳出とが均衡すべきだというのは、根拠がないのではないか。考えるに、それは、歳出が歳入の範囲内に収められれば、赤字が発生しないというだけだ。それぞれ由来が別物であるのに、歳出は歳入額に制限されなければならないということになるのか。通貨は国家が用意するもの、国家には通貨発行権があるのだから、足りなければ、発行して補うことになんの不都合もない。
 税という、通貨回収の制度は既に整っている。
 市中に通貨が溢れることは、税を適切に運用して、通貨を回収すれば、避けることができる。


 通貨は国家が用意して、国民に提供する。だが、国民は通貨を富と看做して、貯蓄する。貯蓄すると、通貨は、市場での流通量が減り、経済活動の手段としての機能を落とすのである。だが、保証する担保としての機能を持つものとなる。つまり、安心を作り出す。その機能を大いに発揮させたいと望む人は、できるだけ貯蓄しようとする。そういう人が多ければ多いほど、貯蓄額が増えれば増えるほど、使うことのできる通貨量、市中での流動性通貨量が減ることになる。その現象に対応して、通貨を適切な量、あるいは、潤沢な量、補うのでなければ、国家の経済活動量は、流動性通貨量が少なくなることで、縮小を余儀なくされてしまう。それを避けるには、貯蓄額が増えれば増えるほど、今では、様々な金融商品が開発されている今では、金融市場に流入する通貨量が増えれば増えるほど、発行量を増やして、金融市場ではない市場、流通市場での通貨の使用量、流動量が減らないようにしなければならない。そうしなければ、流通市場での通貨使用量の減少を招き、流通市場の経済規模の停滞、縮小を余儀なくされることになる。つまり、デフレ。
 では、いかにして、通貨の供給をするのが、効果的なのか。
 端的に言えば、ベーシックインカムを導入するのが、一番効果的である。





〇国家事業は必要があってするものであるとし、歳出と歳入、というよりも、税収とは、均衡すべきものであるとするなら、歳入(税収)は、歳出が決まってから、決定されるべきものとなるのではないか。歳出額が決まれば、自動的に、得るべき歳入額(税収額)は同額である。どれだけ税を集めるのかは、支出される歳出額が決まることによって、決まる。歳入額は、歳出額と同額となる。歳入と歳出は均衡すべきだとするなら。

 だが、実際には、税は税で、歳出額との因果関係があるということではなく、それ独自に、歳出計上総額を考慮せず、いわば、勝手な計算式を作って、独立に考案して、徴収している。歳出額がどうであるから、あるいは、どうであったから、徴収するべき税の総額は自動的に同額であり、従って、割り振り額はどうなるという計算式で算出することが、一度として、行われていない。
 それができないのは、年年で歳出額が変化し、その都度、変化した歳出額に合わせて、徴収する税額が変わり、それに合わせて、割り振り額を計算するのが、面倒であるからなのか。
 あるいは、一定の計算式をある程度恒常性を持たせて運用することが、税の徴収の都合上、利便性が高いからであるのか。
 利便性を理由とするなら、その時点で、プライマリーバランスの主張は、崩れているのではないか。

 税の徴収額の決定の方法論が、プライマリーバランスを元に考慮されたものになっていない。
 現行の税制のあり様は、その制定の前提に、いかにプライマリーバランス云々と語られていようとも、実際的には、歳出額に合わせて、同額が徴収されるように設計されていなければ、実質的に、プライマリーバランスは無視されている、ということである。
 それは、プライマリーバランスが実際に守られて、歳出と同額の歳入が徴収されたということがないことでも、明らかである。

 大体、例えば、景気浮揚のために多額の財政支出をして、歳出が決定されたとして、その政策実行のために、同額の歳入(税)の徴収をするとする。それが果たして、景気浮揚に資するのだろうか。何らかの理由により、市中の資金不足が生じて、不況が発生しているという場合に、多額の歳出を景気浮揚のために決定しても、その同額の歳入(税)を市中から徴収して、その支出に充てる。財政均衡論的には合理的なのかもしれないが、経済政策的に、景気浮揚に効果があることになるのだろうか。それが、貯蓄から徴収するということが効果的に実行されたら、話は別か。それだけの巨額の休眠資金としての貯蓄が市中に存在しているから、そこから、徴収して、流通市場に流すのだと。そんなことが、実際にできるかどうか。できれば、効果があるかもしれない。だが、預貯金に税を課すとなれば、銀行から預貯金が消えるだろう。だから、今あるような、利子税ということになる。金融所得課税を重くして、という話があるが、それで得られる額はどれだけのものか。
 税収入で、歳出を賄うという発想が、そもそも間違っている、ということではないか。
 税収で賄えるくらいに、歳出を少なくする以外に、税収で歳出を賄えるなどということが、実際にできるとは思えない。

 国家事業は、必要から行われるものである。その必要から行うものを、それを賄えるように税を徴収しようとさえしていないのが現実である。現実の税制は、歳出とは無関係に、独立に税の負担感や、徴税の都合や、関係議員の力関係で決められたような各種の税の合計でしかない。そのような歳入は、収支は均衡させるべきという考えを実現させようとの思想の下に、設計されているとは言えない。制度設計の段階で、収支の均衡という考えを実現しようとさえしていないのである。なぜなら、税制の設計において、歳出額が前提になっていないからである。歳出額を前提として考慮しないで税制を考えること自体が、収支の均衡を考慮していない証拠である。
 それとも、歳出は、自動的に、歳入額に合わせるべきとするのか。歳入額が優先され、それに合わせて、国家事業を編成すべきだというのか。そうすれば、確かに、収支は均衡し、赤字は発生しないだろう。それで国家の経営が問題なく行えるのであれば、もちろん結構なことだ。しかし、現実には、国家の必要が、収支の均衡という幻想を蹴散らす。心配する必要はないとも言える。

 現実に、税制はプライマリーバランスを前提としては設計されていないのだから、プライマリーバランス云々という批判があり、政府がプライマリーバランスの実現に向けて努力すると答弁しても、税制がそれを実現するようにできていないのだし、従って、政府は、不足する税収を補うために、赤字国債を発行する。政府のしていることは、プライマリーバランスの実現を考えていない、ということである。過度に心配することはないとも言えるだろう。

 プライマリーバランスの実現というのは、国家事業を必要から考えるのではなく、支出を考えないで得られた歳入額から考えよ、という、非現実的なものである。その実現は、国家を崩壊させるだろう。






〇税とは、何か。

 税とは、何か。何のためのものか。

 私は、税とは、通貨の回収である、と考える。また、通貨の流動量を調節する手段である、と考える。

 税とは、国家が、その権力によって、徴収するものである。ゆえに、それは、国家権力の発露のひとつである。
 徴収するとは何か。それは、言葉は悪いが、その意味するところは、強奪である。

 税は、歴史的に、ある費用を賄うために、強制的に徴収するものであった。それゆえに、国家において、税は、国家の費用、国費を賄うためのものである、と考えられている。
 だが、これは、国富が有限であるから、国費を賄うのに、どこかからその費用の支払いに充てる富を獲得しなければ、国富が底をつくと考えられるからである。
 国費の支払いに、通貨を使う。かつては、金から鋳造した金貨を使った。金は有限にしか存在しないから、支払いに充てる金貨は、適切に市中から回収して、国庫に貯めて、支払いが不能になることを避けなければならなかった。いくら金から金貨を鋳造するのが国家だとしてみても、金が有限であれば、当然、金貨も有限でしかない。支払いの時点で、即時に、必要な金貨を無限に鋳造できるのではない以上、十分な金貨の貯えが必要であった。従って、金貨の鋳造だけでなく、税として、金貨の徴収が十分にできれば、国の金庫が空になることはないことになる。
 だが、これは、有限な資源を通貨の元として使っているから、起きることである。

 その後、金貨に代わって、紙幣が通貨として確立された時に、これで税金は不要になった、と考えた。なぜなら、紙幣ならば、ほとんど無限に発行することができるから、国の金庫が空になることはない、と考えられたからである。ゆえに、通貨の発行だけをして、それで国費を全て賄った。その結果、市中に通貨が溢れ、物価の異常な高騰というハイパーインフレーションと呼ばれるものが発生した。
 だが、これは、通貨量と物資量とのバランスを考慮しない通貨行政の失敗。簡単に、税は不要だと決めてしまった政策の失敗である。

 税とは、国家権力の発露の一つとして、強制的に富を回収するものである。その回収機能を使えば、市中の通貨量を調節することができる、ということを意味している。

 従って、国費は、適切に調節される国庫金、すなわち、無限に発行可能な通貨と、市中に出回る通貨量を適切に調節する税収との合計から構成される国庫金、によって賄うもの、とするのが適切なのである。

 税は、国費を賄うためのものではなく、市中に出回る通貨の量を調節するために、その強力な回収力を使う、通貨量の調節手段である、と考えるのが、適切なのである。

 税とは、通貨量の調節手段である。

 また、調節手段であるだけでなく、課税の仕方によって、経済活動に様々な影響を及ぼすことができる。

 消費税などの広範で全般的な課税は、通貨量の効果的な調節だけでなく、その税率によって、経済活動そのものを左右してしまう効果がある。
 また、ある課税を予告することは、課税が始まるまでに、課税を避けようとする行動を促す効果がある。
 例えば、10年後、原油に炭素税を課すという決定をすれば、課税が始まるまでの間の脱石油対策を活発にすることになるだろう。

 税で調節するのは、通貨量ではなく、通貨の流動量だ。

 通貨の発行量でも、通貨の総量でもなく、通貨の流動量を調節することができ、それをすれば良いのだ。

 税は、通貨の流動量を調節する。その手段である。

 国庫は無尽蔵であり、税は、通貨の流動量を調節する。

 通貨は無限に増え続ける。

 だが、通貨は、どこへともなく消えていく。貯蓄化することによって、潜在化し、それは、消えることとほとんど同じなのである。貯蓄が使われる時に、確かに顕在化して、交換機能を発揮する。しかし、貯蓄化している間は、姿を消し、市場には存在していないのと同じになる。通貨は、無限に増え続けるが、貯蓄化する限り、市場に通貨が溢れることはない。




〇元々、ある集団が、自分たちの費えを、なんらかの税という強奪に近い仕方による収入で賄おうとすることは、通貨を発行することができない立場にある者の発想である。
 通用する通貨を発行することができる立場で、潤沢に発行できれば、税を徴収する必要がない。自分たちの費えも、その他の費用を賄うのも、自分たちが発行した通貨を使えば良いだけ、ということが言える。
 それは、一国を支配する集団が、その国で通用する通貨を発行する場合、適用できる方法である。その国で通用する通貨の発行が潤沢に行われ、それ以上に、通貨量が過剰になり、物資とのバランスが釣り合わなくなって、物価の異常な高騰という現象が現れたら、通貨の流通量の調節のために、税という回収制度を作り、通貨の回収をすれば、通貨の流通量を調節することができる。または、価格統制をするか。
 だが、通貨を貯蓄することができれば、人々は、貯蓄するだろう。貯蓄量が増えるだけでも、実際の通貨の流通量は減る。貯蓄の利率を上げることでも、通貨の流通量は調節ができる。国債の利率を上げることで、国債の売り上げを増やすことでも、通貨の回収ができ、通貨の流通量は減らせる。

〇税を徴収して、費えを賄うという発想は、ギャングの発想に近い。ギャングは、自分たちには、通貨を発行することができないから、他から、通貨を奪って、自分たちの費えを賄おうとするのである。
 政府が、政府の費用を、税を徴収して、賄おうとすることは、あたかも、政府には通貨を発行することができないから、その費用は、他から税という形で徴収するしかないとするなら、ギャングのような発想をしていることになる。
 これは、税を、費用を賄う通貨の獲得の方法としてしか考えていないからである。
 だが、本来、通貨は、政府、国家が発行するから存在しているものであるのだから、通貨量の調節として、また、通貨の循環の完成として回収した収入、税収で賄えない不足分は、通貨を発行して、政府、国家が必要とする事業の費用を賄えば良い。
 その結果として、通貨の流通量が多くなり過ぎているのであれば、その時に、税率や利率を調節して、流通量が少なくなるように工夫すれば良い。





〇「ベーシックインカム」とは、何か。

 「ベーシックインカム」とは、国家が、居住者、国民に給付する給付金である。
 その給付の期間は、基本的に、居住者の誕生から始まり、その死によって終わる。

 私の考える「ベーシックインカム」とは、国家が居住者に給付する「生存報酬」であり、最低限度の「生存保証」である。

 国家は、居住者、国民が生存していなければ、成り立たないのであるから、居住者、国民が生存しているだけで、それは、国家が報酬を渡すに値することだと考えるからである。
 その報酬が、通貨で給付されるのは、現代が通貨経済社会だからである。奈良や平安時代なら、土地を貸与するという形で生存を保証するということが国家によって行われた。しかし、現代では、通貨経済であり、人口がはるかに多いので、全国土を国家所有とし、耕作地の貸与をするということは事実上不可能になっている。
 現代においては、国家は、支配域に居住する人々に対して、国家の成立要素として、まず生存しているというだけで、「生存報酬」として、通貨を給付するのが、妥当なことであると考える。
 そして、それは、最低限ではあるだろうが、居住者の「生存保証」の意味合いを持つ。居住者、国民が、給付された、いくばくかの給付金をいかに使うか。それは、自由市場経済の中で、一人ひとりの自由に任されることになるが、その給付金は、最低限ではあっても、さらなる生存をある程度は保証する機能を果たすことになるからである。

 そのようにして、通貨の「給付」があれば、通貨の循環とその流動量の調節のための「回収」がある。

 「回収」は、税や各種社会保険の保険料などで国家が関与する機構が行っている回収制度が、すでにでき上がっている。
 まだ、でき上がっていないのが、ベーシックインカム、基礎給付金という、当然国家が行うべき、生存し国家を構成してくれていることへの報酬、「生存報酬」としての「給付」、最低限の「生存保障」としての「給付」、という給付金制度、ベーシックインカム、基礎給付金である。

 通貨の「給付」と「回収」があって、永続的に運営される通貨経済社会は確立され、また、通貨の流動量は管理されることになる。

 国家は、領域内の居住者に対し、生存保障の義務を負う。それが、国家の存在意義の第一である。


 ベーシックインカム、基礎給付金の給付は、日本銀行に個人用の基礎給付金発行口座を開設して行われるものとする。そうすることによって、基礎給付金は、日本銀行の通貨発行業務のひとつとなり、政府の事業ではないことになり、従って、国家予算に組み入れる必要がなく、財源も必要がないことになる。発行であるから、発行を受けるのは、市中銀行の個人口座に受け取りを設定することによって、受け取るものとする。受け取らない場合でも、発行口座に累積することはなく、ひと月当たりの発行設定額が、毎月、更新されるものとする。発行であるから、日銀から市中銀行の口座に発行されて初めて通貨の発行がされることになり、その時点までは、財産とは看做されない。
 基礎給付金の発行は、マイナンバーと共に存在することになる。
 基礎給付金発行口座は、個人のマイナンバーの設定と共に開設され、その死と共に閉設される。


 ベーシックインカム、基礎給付金は、日銀の発行で賄う。よって、毎年の予算措置は必要ない。

 だが、基礎給付金を通貨の循環の中での供給で考えるならば、一方的に発行だけで賄うことになる日銀の発行だけで行うのは適当でないとなる。通貨発行量の調節の観点を加えるならば、毎年の予算の中で、基礎給付金は用意すべきとなる。そうすれば、通貨の発行は、歳出の内、税収で賄えない分だけとなることで、通貨量が、新規発行による基礎給付金によって一方的に増加することはないことになる。

 税による通貨の循環の中で、国内の通貨量を勘案して、基礎給付金を給付する必要があることで、日銀が個人向けに基礎給付金発行口座を用意することは不適当だとなる。

 だが、基礎給付金を毎年の予算策定の中に位置づけると、その金額なり、取り扱いなりの継続性、安定性なりに不確実性が生じることになる。通貨の循環の中に位置づけられることが、日銀の発行による基礎給付金の発行でも確保されなくはないのは、税で調節される分が通貨量全体の中にあるのは確実であるから、日銀による基礎給付金の給付であっても、全体としては、通貨の循環の中にあることになるから、それ自体で不適切とはならないと考えられる。さらに、毎年の政府策定の予算、歳出額から切り離すことが、基礎給付金の安定継続性を高めると考えられるので、やはり、日銀による発行で賄うのが最適であると考える。



〇財政均衡論には根拠がない。

 「プライマリーバランス」とか、「基礎的財政収支の均衡」という考え方の根拠は何か。
 それは、幼稚な、「収支の均衡」という固定観念でしかない、と、私には思われる。
 国家財政を、一般の家計や会社の会計と同じレベルのものと考えている。だから、収入と支出を最悪でも同じにしなければ、赤字になって、赤字が嵩めば、破綻に陥るから、避けるべきことだと考える。

 しかし、そもそも通貨は、国家が発行することによって存在しているのである。

 また、国家事業は、必要があって国家事業として実行するものである。

 そして、税とは、通貨の循環のため、循環完成のための回収手法のひとつであり、流動通貨量を調節するためにあるのであって、国家事業の原資を得るためにあるのではない、と考える。

 もし、本当に「基礎的財政収支の均衡」が正しい考え方であるとするなら、まず、国の政策的経費を確定し、その総額に応じた税を徴収するのでなければならない筈だ。
 だが、現実には、その順序で税が決定され、徴収されたことがあるか。全くない。なぜか。現実的には、国の政策的経費の総額の確定が、事後的にしか、できないからだろう。
 いくら掛かるか、終わってみなければ、その総額を確定することはできない。従って、完了事業費を賄うために、国民それぞれにどれだけ課税すれば良いかを割り出すのは、事業完了後になる。事業が終わらなければ、徴収する税額が確定しないとしたら、事業完了前には、支払いはできないことにならないか。原則的に考えれば、費用が確定してから、その費用を支払うために、国民各自が支払うべきとされる税額を確定して、徴収して、そして、支払うという順序になる。業者は、確定した税額の徴収完了まで、支払いを受けられないことになる。
 これが実行可能ならば、財政収支均衡という考えの合理性云々ということもなく、財政が均衡しないことがないことになる。本来はそうあるべきなのか。
 事業完了後、徴収税額を確定し、税収の実行がなされるとしても、現実的には、最終金額の確定前に、前払い金という、または、事後清算という形で、事業費の確定前の支払いができるとして、過去に、総事業費が確定したから、その金額を元にして、徴収すべき税の国民各自の負担額を確定して、税が徴収された、ということがあるか。
 それをしたことがないのは、なぜか。事務負担が膨大だから。また、国家事業はそもそも巨額で、それをすべて税によって賄うことは、国民の負担が大きくなりすぎ、現実的ではないから。国債残高は、国民の預貯金総額に匹敵する。全て税で賄っていたら、今頃、国民に預貯金はゼロということになっているということだろう。

 現実には、税は税で、行き当たりばったりに、それだけで税額をいくらにするかを考えて、徴収している。

 財政均衡を原則的なものと考えるならば、歳出額がいくらだから、徴収するべき税額の総額も同額となり、それをどう国民に負担してもらうかを考え、割り振って、徴収するという順番にならなければならない。少なくとも、前年の歳出額はどうであったから、今年度の徴収税額はこうなるというところから、税の割り振り額の計算は行われるべきことになるのではないか。
 「基礎的財政収支の均衡」が正しい考え方だとするなら、その順番で課税額を割り出すのが正しい課税額確定の方法だと思われる。
 しかし、実際には、行き当たりばったりに、所得額や消費金額に、言わば適当に課税して、徴収して、税収としているだけである。そんな税の総額が、なぜ必要と考えて実行する国家事業費と均衡しなければならないということになるのか。
 それとも、法に依るとは言え、適当に徴収して得られた税の総額に過ぎない税収に合わせて、必要で実行するべき国家事業の総額が制限されなければならないと考えるのが、正しいことだ、とでも言うのか。

 そもそも、通貨は国家が発行して、初めて存在しているものである。また、通貨は、財産として、国民に貯蓄され、流動性を失っていく。実働通貨量、流動通貨量は限りなく減少していくものなのである。さらに、国際決済通貨として認定されて、為替市場でも国際的に取引されていることなどで、国外にも流出していく。金融資産化することに国内外の区別はなく、制限をすることはできない。流動通貨量は限りなく減少する。

 通貨が金融資産化するということは、実際に使える流通市場での通貨量が減るということである。

 流動性通貨量が減っているのに、適切に、あるいは、潤沢に通貨を補給しなければ、どうなるか。
 つまり、資産化して、実際に使うお金の量が減っているのに、国家が、お金の発行を怠るか渋るかして、補給しなければ、お金不足が発生する。少なくとも、お金不足感が発生する。実際には、資産化しているだけで、通貨の総量は十分にあると考えられても、現実に、国内に、手元にあるお金が十分でなければ、不足感はすぐに発生する。

 国外に流出する量が多ければ、国内での実働通貨量は減る。

 不足感が支配的になれば、使用を控えて景気が下がる。それは、今の税制では税収の減少という結果になる。

 「基礎的財政収支の均衡」が正しい考え方だとし、歳入があって、歳出があるとするなら、減少した歳入に合わせて、国家事業は行うべきだということになるから、必要だと思われても、その実行は歳入の額に合わせた制限内ですることになる。国家事業を、その必要性によって判断するのではなく、前年の税の総額がいくらになったかによって、その実行内容を判断するということが、適切な判断の仕方なのか。

 あくまでも、国家事業は、その事業の必要性によって、判断すべきである。その金額も、市場価格に合わせて適切と判断されるものに合わせて、判断すべきである。

 私は、税収とは、通貨の循環の完成と、通貨量の調節として、適切と判断した税制と税率によって徴収するべきもの、また、徴収された総額であって、国家事業費を含む歳出の総額とは、なんの因果関係もないものである、と考える。



 歳入は歳入。歳出は歳出。由来が別である以上、別々に考えるべきものである。
 税収の総額がこうだから、歳出の総額もそれに合わせなければならない、そのように考えるのは、国家財政上では、全く不合理な、根拠のないものである、と考える。家計や企業の会計とは違うのである。

 国家事業が巨大化し、その支出総額が巨額化し、税収を遥かに上回るものになったとしても、その事業が必要なものであるならば、実行しなければならない。国家は、いわゆる歳入不足を、通貨を発行してでも、不足を補い、その支出を賄うだけである。ただ、実際の流通市場での需給バランスを破壊すれば、経済全体を破壊することになる。そこへの配慮は、当然しなければならない。
 通貨量が増え過ぎになるとするなら、税での回収率を高くするなどして、通貨量の調節をする。そのための税制である、税という回収制度は、そのためにある、と考える。


 投資案件が多数となり、巨額の歳出が生じた場合、流通市場に大量の通貨が投入されることになる。その場合、直ちに、何らかの税率を上げて、通貨の回収を急ぐべきなのか。
 市場に、金融市場ではなく、流通市場に大量の通貨が投入されたからと言って、それで、インフレが生じたとしても、それが一時的なものかどうか。それを見極める必要がある。長期化する懸念が出てきた場合に、何らかの税率を上げて、通貨量が調節されるように工夫することはすべきだろう。だが、単に、通貨量を増やす施策をしているからということで、すぐさま増税を実行する必要はない。発行などして、通貨量が増えても、貯蓄化される通貨量も増えれば、流動性通貨量は依然として、あまり変化しなということに、落ち着いてしまうこともあるからである。




〇「善」とは、何か。

 「善」とは、何か。

 「善」とは、命を保つこと、そして、「共存」である。

 人間にとって、「命」は、その存在を成り立たせるために、不可欠のものである。そのことによって、「命」の価値は、絶対のものとなる。

 その「命」の価値が、絶対的に大切なものであり、かつ、その「命」は、失われることのあるものであるがゆえに、「命」を保つことは、同じように、大切な行為、ということになる。
 また、その「命」を損なうことは、憎むべき行為、ということになる。

 その「命」が、失われることのないものであるなら、大切に扱う必要はない、となるかもしれない。どのように扱おうとも、失われることがないのだから、傷つくこともないだろう。

 だが、その「命」が、傷つきやすく、失われるものであるなら、その「命」を傷つけず、失われることのないように、注意を払った扱いをしなければならない。

 「命」は、失われるものであるがゆえに、失われることのないように、大切に扱われなければならない、ということは、「命」を保つ、ということである。

 「命」を保つ、ということもまた、人間の存在にとって、不可欠な条件である、ということである。

 人間にとって、「命」の価値は、絶対のものである。人間の存在にとって、「命」が絶対不可欠のものであるから。

 それがゆえに、その「命」を保つことは、価値あること、大切なこと、すなわち、「善」となり、「命」を損なうことは、その価値を否定すること、すなわち、「悪」になる。


 命が、この世界に、一つしか存在していないならば、その一つの命が保たれることが、価値あること、善ということになるだろう。

 この世界に、命が誕生した時、その命はたったひとつだったのかどうか。ひとつではなく、同じような構造ながら、いくつもの命が、ほぼ時を同じくして、誕生したのか。私は、おそらく命は、その誕生の条件が揃った時に、似たような構造の命が多数、誕生したのではないかと想像している。そのうち、生き続けられる命がいくつか、存在を続け、また、命は、誕生からさほど時を置かずに複製を作るという、つまり、自己再生、分身、子孫を作るという、分裂、再生をしたのではないか、と想像している。そもそも命は、複製を作るという活動なのではないか、そう想像している。

 ともかく、命は、ひとつから、複数になった。
 命は、ひとつではなく、複数存在するようになれば、それが自然で、標準の存在様態であるとなった、ということある。

 命は、複数存在する。
 命は、複数の存在なのである。
 すると、その複数存在する命が保たれることが、複数存在する命の「善」ということになる、と考えられる。それは、すなわち、複数の命が共に生きる、つまり、「共存」である。

 複数存在することが、命の標準であるならば、命の「善」とは、複数の命の存在が保たれること、すなわち、「共存」である、ということになる。同じことを繰り返して言っているようだが、なお繰り返して言うと、複数存在する命が保たれることが、複数存在する命の「共存」ということなのであるから。

 命は、不可欠のものであるがゆえに、基本となる。
 命は、複数であり、命の「善」とは、「共存」である、となる。

 すなわち、われわれは、命を基本とし、命が保たれることを「善」とする、というところから、複数の命が保たれること、つまり、「共存」を「善」として、考えなければならない、ということになる。

 従って、「善」とは、「共存」である、という結論に至るのである。

 ゆえに、「共存」に沿うことが、「善」、となり、「共存」に反することが、「悪」、となる、第一義的には。


 「善」とは、何か。

 「善」とは、命を保つこと、そして、「共存」である。




〇「権利」とは、何か。

 「権利」とは、万人に共通すると認められる欲望である。

 まず、「権利」とは、生きている人間に関わるものである。
 (死者に権利を考えることもできるが、それはあくまで、生きている人間が、死者に成り代わって主張するから、存在するのである。遺言がそれである。)

 生きている人間は、生きているがゆえに、さまざまな欲求、欲望を持つ。
 なぜなら、命とは、欲求、欲望だからである。

 命とは、欲求、欲望である。
 誕生した命は、欲求、欲望の塊である。
 なぜならば、命とは、さまざまなものを取り入れては、エネルギーを生産、消費していく代謝活動だからである。
 命は、エネルギーを生産、消費するために、さまざまなものを取り入れようとする。
 それが、欲求の始まりである。

 その欲求、欲望のうち、これは、人類共通のものだと万人が認め、正当だと認め合わざるを得ないものがある。
 万人に共通する正当な欲望。
 それを、基本的な人の権利、人権というのである。
 まず、命が生まれ、人間が生まれ、その人間の命から人権が生まれ、そこから、さまざまな権利が生じてくる。
 その実体は、正当だと認められる欲望なのである。
 つまり、「権利」とは、「公認される欲望」なのである。
 その欲求、欲望は、正当だと、誰もが認める、認め合わざるを得ない、というものが、「権利」なのである。

 正当だと認められる欲望を、「権利」という。



〇「義務」とは、何か。

 命が基本である。というところから、命を保つためにしなければならないことが、「義務」の始まりである。

 命を保つためにしなければならないことが、命の「義務」だ、ということになる。

 人であることを保つためにしなければならないことが、人の「義務」だ、といことになる。

 社会を保つためにしなければならないことが、社会の「義務」だ、また、社会の構成員の「義務」だ、ということになる。




〇誕生とは、何か。

 誕生とは、分離である。

 自己という存在が、世界から分離して、存在するようになることである。

 誕生とは、世界からの分離である。

 世界から分離することによって、世界を認識することができるようになるのである。

 よって、私の誕生とは、私が、世界から分離した、ということを意味する。

 それがまた、私の存在に、根本的に潜在する、不安や恐怖の原因である。


〇世界の誕生とは、何か。

 誕生が、世界からの分離あるとすると、世界の誕生とは、何からの分離であるのか。

 全ての存在は、それ自身から誕生することはできない。

 全ては、非自身からの誕生なのである。

 すると、世界は、非世界からの分離ということになる。

 非世界とは、どういうものか。
 世界が、物質ででき、物理法則に支配されているとするならば、非世界とは、非物質ででき、物理法則に非ざるものに支配されたものということになる。
 非世界とは、非物質ででき、非物理法則に支配されたものである。



〇死とは、何か。

 死とは、合一である。

 自己という存在が、世界に融合、合一して、なくなることである。

 死とは、世界との合一である。
 世界と合一することによって、世界と不可分となり、世界を認識することができなくなるのである。



〇我々はどこから来て、どこへ行くのか。

 我々は、世界から来て、世界へ帰って行くのである。
 我々は世界から生まれ、死んで、世界に合一する。



〇神と肉体

 何がこの肉体をもたらしたのか。
 肉体は、自然がもたらし、自然は、宇宙を含む世界がもたらした。
 そして、世界は、何がもたらしたのか。
 そう考える時、神的なものの存在に思いを致すことになる。
 しかし、人間にとって、基本は、神にあるのではない。
 神が基本であるのではない。
 人間にとって、基本は、この肉体である。
 肉体が、人間にとっての基本である。
 その意味で、人間にとって、肉体が神である。
 人間にとって、肉体以上の基本はない。



〇存在とは、何か。

 存在とは、人間にとって、ほとんど認識である。
 その認識とは、感覚と判断である。
 感覚しているだけでは、存在を認識しているとは言えない。感覚しているものが何であるかを判断して、初めてそれは存在として、その人間に対して、立ち現れることになる。
 それは、空想でも、判断が伴えば、存在になることを意味している。










1 新 思 想



2 新しい思考の展開



3 人間の基本の考察


3-1 人権とは何か


3-2 少年性と少女性



~断 章~



~随 想~







© Makino Takaaki